分かりやすい豊丸さんの現代美術の解説を、主旨の代わりとさせていただきます。(管理人)

意識下の表層 - Pre Conscious Label -

「藝術は自然の模倣である」といわれるが、H・リードは、それをさらに展開させ「芸術は物理的宇宙の基礎的形体と生命の有機的律動の統合を達成しようとする人類の努力」であると説明している。

人類はその肥大化した大脳皮質により、自然を外部のものとして認識し情報処理する術を得た。しかし、人間は地球上の生命として、自然界の一部であることにかわりはない。前者を理性とするならば、後者は感性ということになるだろうか。人間は理性だけでは生きていけないし、感性だけで生きていける程の本能も、もはや持ちあわせていない。この理性と感性とを結び付けているもの、調和を保つものが藝術であると言えるだろう。

自然科学がまだ専ら、肉眼による観察に頼っていた時代ならば、まだ、藝術も観たものを忠実に絵に描いておけばよかったのだが、今や、物質は原子レベルまで解明され、宇宙のはるか先まで観測が可能な現代では、藝術もただ単に、花や山を叙情的に描きあげておけばいいということでは済まなくなってきた。

現代の自然観における自然の模倣とはいかなるものなのか…それを探る試みが現代美術であると考えれば、現代美術はそれほどやっかいなものでない。しかし、絵とは花や山を上手に描くものという固定概念をもっていると、自然科学の発達は理解できているのに、それを現代美術と結び付けて考えることが出来ない。「これも絵なの?」ということになってしまう。

現代美術とは、もはや‘絵’というカテゴリーには所属してはいない。現代美術は、‘絵’というより、結果のでることのない美的実験であり、試みである。

藝術とは本来人類が自然と融合しようとする衝動であり、欲求であった。しかし、日常生活と自然がかけ離れてしまった今日、現代美術はその人間と自然との距離を計る尺度になり下がってしまっている。

「科学は万能である」という神話が崩れ、科学の発達がさほど人類を幸せにしていないという事実につきあたった現在において、“藝術の可能性をもう一度見直そうとする一試み”それが、私の制作である。

私の制作には明確な制約とルールがある。それは自然界の法則にできるだけ近づくためのものであり、個性を律し感性をとぎすますためである。個性を削れるだけ剥ぎ取る。それでも剥ぎ取れずに残ってしまう自我のなかにすべての生命の共通感覚に訴えられるような美が存在するのではないだろうかと私は考える。もちろん、それはただの試みにすぎない。しかし、その試みは人間として自然との距離を計ろうとする試みではないし、動物的に本能の赴くまま自然と一体化しようとするものでもない。現代に生きる人間が人間として自然へ歩みよろうとする努力であり、試みである。

わたしの作品はそういった試みの痕跡である。潜在意識の最深部にまで自我を掘り下げられるとは思ってはいないが、せめて意識下の表層ぐらいは表現したいと願い、このタイトルをつけた。

ぐだぐだと理屈を並べたが、能書きは所詮能書きである。しかし、能書きなしでは現代美術たりえないのも事実なので、何かの参考になればと思う。しかし、私の作品を頭で理解しようすることよりもまず、私の作品から何かを感じていただくことが出来れば幸いである。なにしろ、理屈が作品を創ったのではなく、制作の過程が理屈を生んだのだから…。

1998/12/8 豊丸眞悟